ベネチアンバザー
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ベネチアンビーズの歴史
ベネチアンビーズについて話す前に、
なぜこれほどまでにベネチアンガラスが有名になったかを、歴史からお話しておかなければならないと思う。
ガラスがどのように生み出され、どのような技術によってはぐくまれて来たか、
まず、知っていただきたい。
ガラスの起源については、伝説や憶測のみで、はっきりとは未だわかっていない。
25-27年頃のローマ人が作った話というのが、今現在での定説である。
彼の語る話は、フェニチア人が一度浜辺で調理をするための焚き火を起こした。
焚き火を囲むためフェニチア人はソーダ化合物を含む石を使った。
浜辺の砂は珪砂を含んでおり、ソーダの影響により化学反応を起こし、
初めてのガラス質が、偶然によって発見された。
日常にて当たり前に存在しえる、炎、砂、ソーダ石から、
偶然の産物としてガラスは生まれたのだ。
でも実際はこのような現象によって、ガラスが作り出されることは無理であろう。
なぜなら、浜辺の上で起こした炎の力では、ガラスは作られない。
だが、ガラスを作り出すための全ての要素がこの話の中に含まれているため、
定説とされているのである。
先ほど述べた通り、ガラスの原料は珪砂とソーダだ。
しかし珪砂はソーダによって生み出される高温の中のみでしか溶けないし、カルシウムの存在もとても重要である。
カルシウムが無いと、ガラスが組織として安定しなくなり、水にもとけてしまうしだいだ。
ほかの素材を一切含まない純粋な珪砂は、透明なガラスになる。
しかし、この素材にさまざまな化合物や、酸化物を加えることによって、
さまざまな色を作り出すことができるのである。
これだけ進歩した世界においても、ガラスの材料の基本は変わっていない。
ビーズもだいたい変わらない。
基本は炎とガラスの棒だけだ。
とても興味深い話だが、フェニキア人は炎に耐えうる骨や、石に、
直にガラスを巻きつけてビーズを作っていた。
他には、メソポタミアでもガラスの文化が栄えていた。
ここでは人々を階級分けをするためのシンボルとして扱っていた。
ビーズは始め宗教的な意味合いを持って使用されることが多かったが、
これによって装飾的に使用され始めるようになった。
エジプトでもビーズは作られていた。
ローマ帝国の繁栄によって、シリアとエジプトだけではなく、
ヨーロッパの地にも伝えられるようになった。
特にイタリアである。
ポンペイ、アドリア、アクイレイアだ。
ここでは2種類のガラスビーズが作られた。
一つは、貴族のような身分の高い人々のために、細かい細工をほどこし、より装飾的なビーズ。
もう一つは、一般の人々が使用できるようなビーズ。
しかし、ビーズが日常生活に溶け込んでいくことによってどんどん普及していき、
たくさん生産され始めたことによって、
身分の高い人たちは、装飾品としてのビーズを扱わなくなってしまった。
ローマ帝国も、シリアのダマスコも崩壊し、ベネチアでガラスビーズの進歩が起こった。
驚くべき短期間でベネチアでのビーズの技術は素晴らしいものへと昇華していった。
それにより、イスラムの人々もはるばるベネチアまで買い求めにくるようになった。
1300年、昔からの技術に進化を重ねていき、次々と新しい技法を生み出した結果、
ベネチアはビーズ製作の頂点として君臨した。
ベネチアはこの時代からビーズを中近東や、アジア,アフリカ等に輸出し始め、
それによってスパイス、金、銀、織物などの伝統工芸品を手に入れた。
シリアなど滅んだ国のビーズ職人たちも、ベネチアに集まってくるようになり、
優れた技術も一緒に持ち込まれた。
1200年には、アジアとのビーズによる交易も盛んだった。
マルコポーロの本の中にもこれらの交流が書かれている。
1292年にベネチアのマジョル・コンシリョ(ベネチアの最高政府官達)が、
法律を定めた。
ガラスの製作は、ムラノ島以外では作ることが出来ないというものだった。
理由としては、火災や工房から出る煙を防ぐためといわれているが、
一つの島に職人たちを集めることによって、技術の流出を防ぐのが一番の目的であった。
しかし、それだけではまだまだ政府は不安を感じ、新しい法律を次々と提案した。
その中のひとつは、ベネチアの外に出ることを禁じるというものまでもあった。
1490年で、ガラスの組合と最高政府官の間で、もっと恐ろしい法律が取り決めになった。
この法律とは、もし職人たちがベネチアから出て、他の土地でガラスを作ったり、
技術を教えたりして、ベネチアと張り合うようなことがあれば、死刑にするというものであった。
しかし、このような厳しい法律をつくってみても、他の国へと引き抜かれて行く職人達が耐えなかった。
ガラスの起源がはっきりしていないのと同じように、ベネチアでのビーズの起源は、
わかっていないが、色々な記述によると13世紀にはすでに盛んであったようだ。
その当時は教会用のロザリオ(数珠)として使われていた。
それと共に、宝石に似せて作られる物も多く、悪徳商人などは本物の宝石として販売する者までもいた。
それほどまでもの、美しさがベネチアビーズにはあった。
よって15世紀には最高政府官が金細工の装飾としてベネチアンビーズの装飾を禁じる法律までもつくられた。
(1445年10月19日)
その時代の職人たちは、昔ながらの技術を用いていた。
金属の棒に土を乗せ、ガラスを溶かしたものを巻き取っていく手法である。
しかし、別の制作方法が発案された、
穴の開いたガラスの棒を輪切りにして、温めて作っていく。
この技術によって、同じビーズを大量に生産することが可能で、製作にかかるコストもずっと安くすませることができた。
1600年ぐらいには、貴族の人々たちによって、洋服にたくさんのビーズを飾るのが流行した。
厳しい数々の法律があっても、職人たちは優れた技術の知識と一緒に他の国にいってしまい、
ついにはベネチアと区別の付かないほどのビーズが入ってくるようになった。
しかし、どれほどそっくりなビーズが外から入って来ようにも、
ベネチアでの勢いは止まることが無かった。
1800年までは・・。
1817年に新しい機械が発明された。
その機械によって1㎜以下のビーズを作ることが可能になった。
しかし、この技術もすぐに廃れてしまった。
なぜなら、ビーズが細かすぎて、糸に通すことが非常に困難だったからだ。
1797年に、ベネチア共和国はナポレオンによって崩壊した。
ベネチアのビーズの技術はベネチア共和国の崩壊と共に、衰退していってしまった。
当時の職人たちはフランスに送られた。
1764年には46社のビーズの工房も、1836年には12社になってしまっていた。
1800年の終わりごろに世界情勢は安定し、ベネチアでのビーズ業界も復興しはじめた。
次の輸出相手は、アメリカ合衆国だ。
毎年2,700tものビーズが輸出されていた。
この時代から、科学技術の発展により、石油の釜がガスに変わり、
剥離剤を使っていたビーズが、酸によって金属を溶かすことにより、
透明度の高いビーズが作られるようになった。
それらの進歩によって、昔のようにベネチアのビーズが世界で最高の物へと復活した。
現在では、ベネチア独自の技術によって産み出される美しさによって、
人々を夢中にさせているのである。
世界中の人々が、ベネチアンビーズに興味を持っている、特別に職人たちがガスバーナーによって作られたもの。
今の問題は販売するより、技術を持っている人たちがなかなか見つからないことだ。
この頃は多くの観光客がベネチアにやって来る。
観光客向けの商品が作られ始めてきたことによって、
ビーズの品質が低くなってしまい、他国からのビーズと変わらないようにまでなっていなっているのである。
この理由のために、MAURIZIO LOTTER, VENETIAN BAZAARと、IDEE IN VETRO は、
ベネチアンガラスを信頼をおき、そして愛し、新しい工場を創業した。
この工場では職人たちは全て商品の量や、形に関係なく、
ベネチアが世界中で有名になった時と同じ昔の技術を使わなければならない。
ベネチアンガラスの歴史
これまでベネチアンガラスの歴史は、10世紀に始まり、13世紀より発達しはじめ、
ルネッサンス時代の15-16世紀に最盛期に達して、18世紀末に衰え、戦後復活してきたと一般的に解釈されてきた。
そして、その始まりはビザンチィン帝国から技術導入した とか、
地中海東岸のイスラム世界のガラス産地からの影響で始まったといった説が一般化していた。
ところが、1960年から61年にかけて、ポーランドの考古学者が現在人口19人となっているトルチェロ島の広場を発掘して、
7世紀-8世紀のガラス古窯を発見し、venetian glass 史に大きな波紋を投じた。
そしてトルチェロ島のガラス工房跡から出土物からみた製品の技術やデザイン内容は、
中部イタリアのラヴェンナや北イタリアのフリウリのガラス工房と同様にアレキサンドリアのイスラムガラスの系統に属する発表された。
ポーランド考古学者の説によると、このガラス工房は少なくとも8世紀まで続いた、と報告されているが、
断絶後ガラス工房が何処に移動したか、何処に継承されたかは不明である。 このガラス工房が、
ベネアンガラスへと直接つながってゆくかどうかの結論はまだ若干の問題点を残しているが
、少なくともこの島で製造されていたガラス器の断片資料の他に、
この工房とヴェネツィアンガラスの始まりとされる10世紀との間のギャップを埋める資料が存在することも明らかになっている。
つまり、トルチェロのガラス工房はヴェネツィア湾内の いずれかの島などに、移動又は継承されていた可能性が高い。
もともとトルチェロ島は、ベネチア共和国が独立した6世紀には、
その首庁舎が置かれていたところで、ベネチア湾内では最も重要な島であった。
しかし、8世紀に入ると首都機能などの重要な役所が次々にリアルト島に移され、
サンマルコ寺院が創建(829年)された頃には、トルチェロ島の政治、経済上の役割は終わっていた。
こうした 移動状況から推測しても、
トルチェロ島のガラス工房は間違いなくベネチア本島へと継承されていったにちがいないであろう。
イタリアがローマ帝国(紀元前1-5世紀)の本拠地であった頃、
ガラス工芸史上では 大事件が起こった。
いわゆる吹きガラスの技法の発明である。
たった一本の金属パイプがガラス生産方法に革命をもたらして、
全世界にガラス技術やその技法によって作られた 製品が浸透していった。
一般にローマンガラスと呼ばれているガラス製品がそれである。
東は日本に、北はスカンジナヴィアやロシアに
、南はアフリカに、西はイギリスに到るまで、
古代文明の存在したあらゆるところに、ローマンガラスは運ばれていったが、
その爆発的な展開も西ローマ帝国の破壊(476年)と共に、急速に衰えて、やがて姿を消してしまった。
イタリア半島の全域でガラス工房が活動していたが、とりわけ北イタリアのアクレイアが最も盛んなガラス工芸の中心地であった。
このアクレイアのガラス工房は、その後生き延びて 活動を続けていた一つであった。
もともとアクレイアは海湾都市で、海上貿易の盛んな 商都市でもあったから、
東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とも、地中海東岸やアレキサンドリア地方とも交流があった。
この地で発掘されたローマンガラスや陶器、ブロンズ等は 種類、技法、年代に幅広い拡がりを示しており、
各地に輸出入貿易を行っていた状況を窺わせる。
そのアクレイアのガラス製品とトルチェロ島のガラス工房で作られていたガラス 製品とにイタリアガラス史でも共通性が認められている。
これはヴェネチィアンガラスが確実にローマンガラスの延長線上にあることを示唆している。
ベネチアンガラスの展開
トルチェロ島のガラス工房の周辺からは、
ガラスモザイクの断片が数多く発掘されているが、
それらは7世紀頃建設されたトルチェロ島の教会や聖堂を製作する為に作られたものであった。
8世紀に入って、
リアルト島(ヴェネツィアの島が作られる以前に現在のヴェネツィア領域内にあった島)のにヴェネチィア共和国の中心が移動して、
リアルト島の各地で教会や聖堂の建設ラッシュがはじまった。おそらく、
ガラス工房も建設現場に近いリアルト島に移ったのであろう。
それを確認できる資料はない。
公式な記録上でヴェネチィアのガラス職人の名前が登場するのは10世紀末になってからのことであった。
1078年にはサンマルコ大聖堂の再建が始まり、前壁面がガラスモザイクで埋め尽くされていった。
ヴェネチィア政府は東方のガラス工芸の中心地に植民地を建設して、
原料の砂やソーダ灰の入手を確保するとともに、
それらの中心地で作られていたイスラムガラスの独占的な輸入も行うようになった。
そして遂に1268年にはヴェネツィアンガラス同業組合が結成され
、組織的な発展の基礎が作られ、これを踏まえてヴェネチィア政府もガラス業界への援助が行われるようになる。
1277年、
ベネチア提督がシリアガラスの最大産地の領主との間にガラスカレット(ガラス素材原料)の輸入契約を結び,
ベネチアへの原料の安定的供給を計った。
また燃料の管理を合理的に行う為に、薪に政府が 直接統制を加えることになり
、夏期の操業の禁止を行うなど、政府の強力なコントロールが入れられるようになった。
ガラスの製造を完全なかたちで政府の保護下におく為に 1291にガラス製造業者及び職人、助手、
家族等すべてをムラノ島に移住させ、島外に脱出する者には死罪を課すという厳罰体制で管理が行われた。
一方では新しいガラス技術や新製品の開発を行った者には賞を与えたり、時には貴族の称号を許可することもあった。
ベネチアンガラスは、ムラノ島の中でこうした管理化の下に守られ、発展していった。
13-14世紀のガラス
この時代のガラスは、ビザンチン世界のガラス、とりわけギリシャのコリントガラスに関連をもつ。
ビザンチンとイスラムのエナメル彩色の技法と器形のデザインが15、16世紀に展開するグラスに大きな影響を与える。
15世紀のガラス
15世紀になると、イタリアルネッサンスの文化的高まりを背景にして、ガラスが高度に発達して行く。
その代表的な作品が華麗なエナメル彩色のゴブレットやコンポート、鉢や瓶壺類である。
特に結婚記念や祝祭記念用に作られた作品は、注文主の家紋や名称、 肖像等を入れて作られた。
この時代はヨーロッパの各地の君主や名家からの注文によって製作されたエナメル彩色の記念のガラス器類が多く作られた。
これからも15世紀よりベネチアンガラスが名声を獲得し、賞賛されていたことがわかる。
エナメル絵付けガラスの大家とされるアンジェロ・バルビィエールの結婚記念杯が有名である。
16世紀のガラス
16世紀後半になるとベネチアンガラスは最盛期をむかえる。
新しい様式のガラス作品が続々と生み出された。
ヴェネツィアンレースとして当時のヨーロッパ貴族たちのコスチュ-ムを飾ったレースの
名声をガラスにも取り入れようとして作られた繊細なダイヤモンド彫り ガラス
、華麗なレースガラス、無色透明のクリスタルガラス、器全体に氷裂を入れたアイスクラックガラス、
美しい流動的な色彩のうねり模様を再現したマーブルガラスなど、
色々な形態や機能のガラス作品が作りだされた。
特に乳白色の細い線を透明なガラスの中にレース編みのように一糸乱さずに閉じこんだレースガラスは秘伝とされており、
永くヴェネツィア独特の至芸として伝えられてきた。
16世紀のベネチアンガラスにおいて、壁面鏡や巨大シャンデリア等、
インテリア関連のガラス製品が急速に展開し、特にベネチアの鏡はヨーロッパ各国で大流行した。
その名声を高めたのがフィレンツェのカテリーナ・メディチがフランス王アンリ2世に嫁いだ時に109枚のヴェネチィアの鏡を持参した。
当時の鏡の値段は名画の3倍も高かったということであるから、それは富の象徴ともなった。
さらに、マリア・デ・メディチが続いてフランス王アンリ4世に嫁いだ時には、
多種類の宝石で飾られた化粧鏡がヴェネツィアより贈られて話題をさらったそうである。
こうしたフランス王室のデモンストレーションに刺激されて、
各国の王室や貴族たちも競ってヴェネツィアの鏡を買うようになり、それを部屋一面に飾ったりして、
「鏡の間」がヨーロッパの貴族社会で大流行する。さらに、そこに輝きを添える シャンデリアの需要も多くなった。
17世紀のガラス
ヨーロッパ市場の90パーセントを占有するほどまでに
急成長したヴェネチィアのガラス産業も17世紀になると、かげりを見せ始める。
大西洋ルートで世界貿易を展開し始めたスペイン、
ポルトガルや強力な政治力と経済力を持ったフランスがヨーロッパの政治経済の主導権を握るようになり、
ヴェネツィアの地中海の東方貿易は無用となっていった。さらに、イギリスで鉛のクリスタルガラスが発明されて、
豪華なテーブルガラスがヨーロッパ市場を魅了し始めた。
また、ヨーロッパの半分を占有していた神聖ローマ帝国はボヘミアのプラハに首都をおき、
ボヘミアンガラスの育成に努め、木灰を使ったカリ・クリスタルガラスを生み出し、
無色透明のガラスに彫刻を施した豪華なバロックガラスが創り出された。
このガラスはハプスブルク家の下に王室で使われるようになり、急速に中部ヨーロッパに拡がっていった。
そんな中でヴェネツィアンガラスはヨーロッパ市場から撤退していくようになり、大きな危機に直面する。
こうした危機を乗り越える為、ムラノ島総動員で、
イギリスやボヘミアのガラスに対抗できるガラス製品の開発に取り組み、
生まれたのが過剰装飾とも言われることのあるアップリケ装飾を取り入れた華やかなガラス製品である。
縁取りに青や赤や黄色等を使った多彩なガラス器も創り出された。
また、イギリスやボヘミアのクリスタルカットのシャンデリアに対抗して、
花のように多彩で華麗なシャンデリアやキャンドルスタンド等の照明器具もこの時期創り出された。
さらに、古代ローマ時代のミルフィオリガラスの技法を再現して、
モザイク模様のトンボ玉を大量生産して、
アフリカ原住民との間で奴隷貿易を行ったのもヴェネツィアの衰退の影響がみられる。
ヴェネツィアンガラスの市場を維持する為の努力によっていろいろな技術開発や新しいジャンルの開拓を行った。
金色に輝くアヴェンチェリガラスの開発やマーブルガラスの展開もその成果となった。
18世紀のガラス
ヨーロッパ各国は新しい産業主義が始まり、
自国産業を保護する為に競争力の弱い 分野の製品に高率の輸入関税を課して自国の産業を保護するようになった。
ベネチア、ボヘミア、イギリスのようなガラス産業が高度の発達をみせていた国を除いて、
どの国も自国のガラス産業を保護する為に、ガラス製品の輸入に対して高率関税の制度をおこなった。
このため、ガラス生産国の輸出は激減して倒産するガラス工場が続出した。
そこでムラノ島のガラス工場は高率関税でも乗り超えてゆけるような付加価値の高い製品の開発がされるようになった。
かつてのムラノ島では手がけたことのなかったグラヴィ-ル彫刻やカットの技法も導入した製品が作られた。
またベネチアンガラスの一分野として重要な位置を占めていたガラスモザイクも従来の一センチ角でかなく、
一ミリ角のガラスモザイクさえ作り出された。
さらに社会状況の変化により超脱した強力なスポンサーであったキリスト教会に対する売込みも盛んになり、
教会のインテリアや什器類も作られるようになった。
関税のないアフリカや東南アジア向けの輸出トンボ玉も盛んに製造された。
ガラスの装身具や使うことを目的としない装飾品、洋服のボタンやステッキの握り手、ドアノブ、
子供のおもちゃなどあらゆるものが手がけられた。
そしてこの苦境にナポレオンのヴェネチィア征服(1797年)という一撃を与え、ベネチア共和国が解体する。
19世紀のガラス
1806年、venezia共和国の解体から10年後にムラノ島の500余年続いたガラス 職人組合は解散した。
輸出が落ち込み、政府の指導もなく、ガラス職人たちは途方に 暮れていた。
しかし時代は近代化に踏み出し、義務教育、社会教育、産業教育の場として、美術館、博物館、資料館のブームが到来した。
ヨーロッパの各所でその土地固有の物産や伝統を踏まえた歴史博物館が作られた。
古い資料が不足し、必然的にレプリカが必要となり、ムラノ島の職人たちは、
古代から17世紀のガラス製品の名品レプリカ作りに励む中、自らの現状を切り開いていくヒントを得ることになる。
色ガラスの生産を特徴としていたヴェネツィアのガラス工芸にとって、
他国にはできない最大の利点が色ガラスを基本にしたがらす製品を作ることであった。
その一つがガラスモザイクの生産で、古い教会のモザイク壁画の修復に必要であった。
ヴェネツィアは黄金モザイクガラスを作ることのできた唯一の産地だった。
さらに新しい建築用の照明器具や建材インテリア部門にジャンルをひろげていった。
支えを失って再出発したムラノ島のガラス産業もこうして辛うじて苦難の時代を乗り越えようとしている時に、
二人の救世主、弁護士サルヴィアッティと修道院長のザネッティが現れる。
サルヴィアッティはガラスの世界では素人である特権を生かして、
ガラスモザイクに近代的な製法を導入して大量生産する工場を建設し、
建設関連のガラス製品や名品のレプリカ、時代に適したガラスの量産に踏み出し、
株式会社を設立して大きな成果を あげた。
サルヴィアッティに続く工場が続出して古い体質は近代化していった。
一方でザネッティはガラス工芸の基本を教える教育機関をつくり、
古い資料を集めてガラス博物館もつくった。
本来、工場特有の秘法や秘伝や独自の技法を公開することを厳禁していた
規制の中で過ごしてきたムラノ島の職人達は容易には公開してくれなかったが、
ザネッティの熱心な説得に賛同し、学校、美術館、展示会、
研究会が開かれてゆき、資料も集められ本格的な研究も進められた。
こうした先見者と伝統職人達の提携によって、窮地を脱出し少しずつ近代化の道へと進展していった。
20世紀のガラス
この時期、ベネチアではヨーロッパで流行していたアール・デコ様式に呼応するデコ様式を生み出した。
それはシンプルな造形と抑制された色使いを特色として、
華やかな装飾性や多彩色を特色としていた従来のヴェネツィアンガラスの様式とは異なった現代的なデザインとなった。
第二次世界大戦で被害を受けたイタリアの中で、ムラノ島のガラス産業にも破壊的な打撃を受け活力を失う。
そんな状況の中で銀行員コスタンチーニにより、ガラスの復興を願って、
世界の巨匠達(ジャン・コクトー、
ピカソ、シャガール等、数十名の画家や彫刻家)にガラスの芸術作品の制作に協力を呼びかけた。
1950-70年代にかけて、こうした巨匠達は続々とヴェネツィアを訪れてコスタンチーニに協力を申し出て、
ガラス彫刻作品用のデザインを描いた。
コスタンチーニがデッサンをガラス製品に移す解釈と指導を行い、
巨匠達とコスタンチーニの共同作業となり、作品は生まれていった。
これがガラス史上最初の彫刻作品であった。
コスタンチーニ企画した初めての発表会に多くの アーティストやアートディーラーが荒廃していたムラノ島に集まり、
職人達に大刺激を与えた。
そしてムラノ島は改めて蘇り、新しいガラス美術を生み出し、
すばらしい現代作家たちが輩出していった。
ベネチアの歴史
紀元前一世紀頃、古代ローマ帝国が現在のヴェネト州、フリウリ州、トレンティーノ州、
そしてクロアチィアのイストリアを含めた地域をVenetia」と呼んだことに由来する。
紀元前10世紀に小アジアから到来したと言われる人々が定住して、ヴェネツィア周辺の本土沿岸に港町ができた。
6世紀頃、アッテラのフン族の襲来から逃れるために、
多くの住民がラグーナと呼ばれる浅瀬の岬や島、現在のトルチェロ島ヤブラノ島などの島々に移り住み、どうにか塩の生産で生き延びた。
やがて塩の交易で経済力をつけ、コンスタンティノープルから自治権を与えられ、
7世紀末には最初の総督が選ばれ、9世紀の初め、水で囲まれて防衛に適した場所、ヴェネツィアの島に本格的な移動がはじまった。
司教と総督というヴェネツィアの町にとって基本的な聖と俗の二つの権威が確立する。
827年頃、二人の商人がエジプトのアレキサンドリアから聖人サンマルコの遺体を持ち帰り、
その時点からヴェネツィアの守護聖人となり、サンマルコ聖堂を再建して、宗教的独立と政治的自由を願った。
司教と総督の努力によって、西方の国向けの品をビザンチンや アラブなど東方の国から輸入する港として栄えるようになり、
992年に総督は東ローマ帝国から海運貿易に有利な条件を獲得し、11世紀初めにはアドリア海全域を手中に入れた。
14世紀のペストで人口は半分になり、経済危機が訪れたうえ、ミラノ、フィレンツェなどからも攻撃を受けた。
幸いにして、ジェノヴァと協定を結び、それ以降は アドリア海を 制覇できるようになった。
そして勢力を増してきたトルコ軍に対して、キリスト世界を守るという 名目で立ち向かった。
一方内陸では14世紀末、フィレンツェと協定、15世紀には北ヨーロッパとの輸出の道を確保する為、
軍隊を送り、ヴェローナ 、パドヴァ、ヴィチェンザを支配下に置くようになる。
その後戦いに巻き込まれながらも 16世紀には経済大国となり、最も華やかの時代をむかえる。
16世紀末レパントの戦いでトルコ軍を倒して将来が 輝かしく思われたが、
17世紀初め再びペストの打撃を受けて次第に衰えていった。
1797年にはナポレオンの占領でヴェネツィア共和国は破壊する。
その後オーストリアの支配下におかれるが、1866年イタリアに統合する。
ベネチアの島
ベネチアの島は120以上の小島が400もの橋で結ばれている。
水と陸の接点である橋はヴェネチィアの都市構成の重要な要素であり、
現在の橋はほとんどが19世紀に作られたもので、全てが太鼓橋なのは水面と陸面の差が少ないためである。
町は街路と広場と150ある水路の網で形成されている。
人口基盤
ベネチアの建物は不安定な地盤に適した軽い柔軟性のある構造が必要だった。
建物の外壁の部分に木の杭をカラントと呼ばれる粘土と砂の混じった層にまで打ち込み、
その上にユーゴスラヴィアから運んできたイストリア石の基礎土台を載せ、
さらにその上にレンガの壁を積み立てていく。
主構造には船と同じように木が使われた。
木は湿気を吸収し全体の重荷を減らすので、船大工の技術を建物に適応した。
井戸
広場や宮殿の中庭にはほとんど必ず井戸がある。
それは地下水を吸い上げるものでは なく、雨水を溜める槽である。
地下水のない島という立地条件で飲料水獲得のための見事な工夫であった。
STORIA DELLE PERLE VENEZIANE
Prima di parlare delle perle veneziane e doveroso conoscere un po’ della storia che le ha fatte diventare cosi preziose in tutto il mondo.
Conoscre l’ origine della materia che le compone,
il vetro e le tecniche usate anche per le perle di vetro antenate delle perle veneziane.
Sulla scoperta del vetro ci sono soltanto delle ipotesi e delle leggende,
non si sa ne dove ne quando sia stato inventato e si tende metterla nel caso fotuito come in
un ipotesi che e’ anche narrata in testi romani del 25-27 d.C.e che si tiene quasi per buona per la maggior parte della gente.
Si racconta che su una spiaggia fenicia a sud di Tiro,
alla foce del fiume Belus alcuni marinai fenici accesero un gran fuoco, circondanlo da grandi blocchi di soda messi per circonscriverlo.
La sabbia silicea di cui era formata la spiaggia, aiutata dalla soda, comincio a fondere
cosiche dalle braci comincio a formarsi il primo rigoletto di materia vitrea.
La casuale combinazione di elementi solitamente presenti in natura ( sabbia, soda e fuoco)
avrebbe dato inizio a questo meraviglioso e misterioso elemento.
In realta le cose non possono essere come si descrive nei testi romani perche
ci sono delle fonti in cui si parla di pasta vitrea anche prima di questo documento,
ma e’ anche materialmente impossibile per quanto possa essere grande il fuoco fatto,
fondere il vetro in una spiaggia.
Ad ogni modo i riferimenti ci sono tutti e teniamo questa versione per quasi buona.
Come detto prima,
le basi per il vetro sono la sabbia e la soda perche la sabbia da sola fonde a temperature molto alte e quindi serve la soda per auitarla,
infatti la sabbia fonde dentro la soda.
Pero non e’ tutto mancano ancora delle cose, una di queste e’ il calcio,
il quale conferisce al vetro una stabilita duratura.
Senza di esso il vetro si deteriorebbe rapidamente e sarebbe possibile addiritura scioglierlo in acqua.
La sabbia silicea se pura,
forma il vetro incolore ma se alla composizione di base si aggiungo determiti materiali
il vetro puo’ assumere una vasta gamma di colorazioni.
Nonostante il progresso gli strumenti principali non sono cambiati : fuoco e sottili canne di vetro.
Un‘ interessante produzione di perle in vetro si sviluppo fra i Fenici
i quali avvolgevano il vetro su delle basi fatte di ossa o pietra
o altro materiale che potesse resitere al calore e che si potesse estrarre con facilita.
Anche in Mesopotamnia ci fu uno sviluppo di perle notevole con altrettante sofisticate tecniche,
e da qui le perle in vetro diventano un simbolo di distinzione fra le posizioni sociali perdendo cosi il loro
significato primitivo che era piu un simbolo religioso o amuleto che non una decorazone.
Anche in Egitto si producevano perle in vetro.
Con l’ espansione dell ‘impero romano cominciarono a sorgere dei centri di produzione perle anche in altre regioni europee
non solo Siria ed Egitto ma sopratutto in Italia a Pompei, Adria e Aquileia.
Qui subbentrano due tipi di produzione uno, destinato alle classi sociali elevate,
cercando di trovare tecniche sempre piu’ elaborate e l’altro rivolto alla popolazione di massa.
Con il tempo la produzione di massa rese possibile al popolo comune
di acccedere al prodotto a tal punto che i nobili cessarono di indossarle.
Con il crollo dell’ impero romano e successivamente la caduta di Damasco
comincia la salita dell’ arte perliera veneziana che in poco tempo sostituira
anche i grandi colossi presso i popoli Islamici e Musulmani.costretti a rivolgersi a Venezia per qualita' e prodotti.
Gia nel 1300 Venezia era gia diventata capitale mondiale del vetro
e di conseguenza delle perle veneziane recuperando tutte le tecniche moderne ed antiche
mescolandole in un’ armonia di colori e forme creando una mirabile fusione di tutte le eredita’ dei secoli passati.
Venezia comincio a commercializzare le perle in tutto l’ oriente importando cosi materiali preziosi,
utilissimi per altri tipi di mercati.
In questo periodo molti perleri bizantini si trsferirino a Venezia portando cosi un ulteriore bagaglio di tecniche e capacita artistichie.
Anche nel 1200 con il commercio verso i paesi del Sol Levante l’ esito fu positivo,
importando cosi pietre preziose spezie e merci pregiate .
Di questo fatto se ne parla anche sul libro “IL MILIONE”
scritto su dettatura da Marco Polo il quale definsce l’ oriente come il paese delle meravigle.
Nei 1292 il Maggior Consiglio decreto’ che :
“ il vetro non poteva piu essere lavorato a Venezia ma solamente nell’ isola di MURANO”
forse per ragioni di sicurezza o per il pericolo di incendi o inquinamento,
ma si crede per certo che fosse piu che altro per poter gestire i vetrai e per mantenere segreti tutti i procedimenti della lavorazione del vetro.
Ma il governo ha ancora paura della diffusione delle tecniche di lavorazione che
emana via via una serie di provvedimenti volti a controllare l’attivita dei vetrai e in particolare a vietarne l’ emigrazione.
Nel 1490 la corporazione dei vetra e’ posta sotto la giuristizione diretta del massimo organo di governo della repubblica:
il CONSIGLIO dei DIECI.
Ai vetrai di Murano e’ vietato sotto
PENA DI MORTE,
divulgare i segreti della loro arte e di uscire da Venezia per fondare in altri luogi, industrie che possano creare concorrenza.
Malgrado questo, molti vetai veneziani si trasferiscono ugualmente e creano altrri centri di lavorazione del vetro in europa.
La fabbricazione di perle, lo stesso, non ha lasciato testimonianze della sua origine.
I piu' antichi documenti che si riferiscono al lavoro dei perlai veneziani risalgono ai primi decenni del 1300 e
testimoniano un’ attivita gia ben sviluppata e orientata anche verso una produzione da esportazione.
Le perle di quel tempo erano prevalentemente prodotte per farne dei rosari ( PATERNOSTRI )
mentre una speciale vigilanza era rivolta ad evitare che si producessero imitazioni
di pietre preziose che commercianti disonesti spacciavano per vere pietre preziose
tanto era gia bella la qualita del vetro all’ epoca.
Nel 1400 e gia’ difficile notare la differenza tra vere pietre preziose e vetro veneziano che
il Senato e’ costretto ad emandare un decreto che condanna tutti coloro che incastonassero le perle o gemme in vetro con metalli preziosi,
spacciando cosi’ il vetro come pietre preziose 19/10/1445.
I perlai veneziani “ PATERNOSTERI ” a ragione del proprio principale prodotto
lavoravano seguendo la tecnica gia adoperata in passato cioe’
di avvolgere attorno un ferro coperto da un impasto terroso il vetro tirato in maniera sottile “canne”,
riscaldato da un piccola ma potente fonte di calore " LUME".
Verso la fine del 1400 appaiono le prime notizie di un vetro in canna bucato con il quale,
tagliato a sezione e riscaldato, si ricavano tante perle da poter risparmiare tempo e materiale.
Questa se si puo dire invenzione,
consenti lo sviluppo di un modo di lavorare le perle che pur se tutte uguali vengono prodotte in grande quantita’.
E’ comunque in questo periodo che si sviluppa la tecnica di avvolgimento.
Nel 1600 il lusso si diffonde e a Venezia quasi tutti gli abiti vengono ricamati con perle in vetro e oro e argento.
Anche qui severe leggi imposte dal governo continuano ad empedire ai vetra di divulgare la propria arte.
Ma nonostante alcuni riescono ad espatriare creando cosi' ulteriori centri in Europa
facendo cosi’ difficile il riconoscimento della tecnica veneziana.
Nonostante l’abbondante e qualificata concorrenza
i perlai veneziani riescono sempre a dominare i mercati mondiali
sia per la qualita che per la quantita delle perle prodotte fino al 1800.
Nel 1817 nuove macchine industriali consentono la produzione di perle perfettamente sferiche e
di diametro inferiore a 1 mm ma la produzione di queste perle piccolissime e presto abbandonata per questioni di infilatura.
Nel 1797 sfortunatamente
cade la Repubblica di Venezia per mano di Napoleone e l’industria delle perle subisce un vero tracollo.
Il numero di manifatturiere si riduce notevolmente i molti perleri vengono trasferiti in Francia.
Nel 1836 a Venezia erano rimaste 12 fabbriche su 46 del 1764.
Alla fine dell’ottocento quando le guerre cessarono
l’esportazone di perle veneziane verso gli Stati Uniti raggiuge la quantita’ di 2700 tonnellate annue.
Le innovaziono tecnologiche del 1800 cambiano anche il modo di riscaldare il vetro che passa dal vecchio lume ad olio con gas.
Poi con l ‘avvento di sostanze acide cambia anche il vecchio ferro ricoperto da materile terroso
con rame bucato e cotto riuscendo cosi ad ottenere un perla con trasparenza ancora piu elevata.
Solamente in questo periodo con la produzione di perle di altissima qualita'
l’industria veneziana ha ripreso il posto che le compete nell’ambito internazionale e
le perle veneziane vengono sempre piu apprezzare per la loro bellezza ed eleganza.
Oggi assistiamo ad un risveglio di interesse per le PERLE VENEZIANE specialmente per quelle fabbricate a lume.
Piu che al mercato, aedsso le difficolta vengono dalla scarsita di manodopera specializzata
capace di far rivere questa secolare tradizione di artigianato artistico.
Con l’ avvento del turismo di massa poi la qualita' prodotto specialmente in questi ultimi
anni e’ notevolmente scaduta lasciando spazio ad altre tipologie di perle provenienti dall’ estero,
Repubblica Ceca, India, CINA etc. con qualita molto inferiore ma, con prezzi estremamente bassi.
E’ per questa ragione che Maurizio Lotter e Venetian Bazaar ,
credendo e amando le perle veneziane hanno deciso di creare una struttura dove e' d’obbligo,
indifferentemente dalla tipologia della Perla,
produrre PERLE VENEZIANE utilizzando le stesse tecniche che le hanno reso famose in tutto il mondo.
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