![]()
Perle Veneziane Venetian Beads ベネチアンガラスの歴史 これまでベネチアンガラスの歴史は、10世紀に始まり、13世紀より発達しはじめ、 ルネッサンス時代の15−16世紀に最盛期に達して、18世紀末に衰え、戦後復活してきたと一般的に解釈されてきた。そして、その始まりはビザンチィン帝国から技術導入した とか、地中海東岸のイスラム世界のガラス産地からの影響で始まったといった説が一般化していた。 ところが、1960年から61年にかけて、ポーランドの考古学者が現在人口19人となっているトルチェロ島の広場を発掘して、7世紀−8世紀のガラス古窯を発見し、venetian glass 史に大きな波紋を投じた。そしてトルチェロ島のガラス工房跡から出土物からみた製品の技術やデザイン内容は、中部イタリアのラヴェンナや北イタリアのフリウリのガラス工房と同様にアレキサンドリアのイスラムガラスの系統に属する発表された。ポーランド考古学者の説によると、このガラス工房は少なくとも8世紀まで続いた、と報告されているが、断絶後ガラス工房が何処に移動したか、何処に継承されたかは不明である。 このガラス工房が、ベネアンガラスへと直接つながってゆくかどうかの結論はまだ若干の問題点を残しているが、少なくともこの島で製造されていたガラス器の断片資料の他に、この工房とヴェネツィアンガラスの始まりとされる10世紀との間のギャップを埋める資料が存在することも明らかになっている。つまり、トルチェロのガラス工房はヴェネツィア湾内の いずれかの島などに、移動又は継承されていた可能性が高い。 もともとトルチェロ島は、ベネチア共和国が独立した6世紀には、その首庁舎が置かれていたところで、ベネチア湾内では最も重要な島であった。しかし、8世紀に入ると首都機能などの重要な役所が次々にリアルト島に移され、サンマルコ寺院が創建(829年)された頃には、トルチェロ島の政治、経済上の役割は終わっていた。こうした 移動状況から推測しても、トルチェロ島のガラス工房は間違いなくベネチア本島へと継承されていったにちがいないであろう。 イタリアがローマ帝国(紀元前1−5世紀)の本拠地であった頃、ガラス工芸史上では 大事件が起こった。いわゆる吹きガラスの技法の発明である。たった一本の金属パイプがガラス生産方法に革命をもたらして、全世界にガラス技術やその技法によって作られた 製品が浸透していった。一般にローマンガラスと呼ばれているガラス製品がそれである。 東は日本に、北はスカンジナヴィアやロシアに、南はアフリカに、西はイギリスに到るまで、 古代文明の存在したあらゆるところに、ローマンガラスは運ばれていったが、その爆発的な展開も西ローマ帝国の破壊(476年)と共に、急速に衰えて、やがて姿を消してしまった。 イタリア半島の全域でガラス工房が活動していたが、とりわけ北イタリアのアクレイアが最も盛んなガラス工芸の中心地であった。このアクレイアのガラス工房は、その後生き延びて 活動を続けていた一つであった。もともとアクレイアは海湾都市で、海上貿易の盛んな 商都市でもあったから、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とも、地中海東岸やアレキサンドリア地方とも交流があった。この地で発掘されたローマンガラスや陶器、ブロンズ等は 種類、技法、年代に幅広い拡がりを示しており、各地に輸出入貿易を行っていた状況を窺わせる。そのアクレイアのガラス製品とトルチェロ島のガラス工房で作られていたガラス 製品とにイタリアガラス史でも共通性が認められている。これはヴェネチィアンガラスが確実にローマンガラスの延長線上にあることを示唆している。 ベネチアンガラスの展開 トルチェロ島のガラス工房の周辺からは、ガラスモザイクの断片が数多く発掘されているが、それらは7世紀頃建設されたトルチェロ島の教会や聖堂を製作する為に作られたものであった。8世紀に入って、リアルト島(ヴェネツィアの島が作られる以前に現在のヴェネツィア領域内にあった島)のにヴェネチィア共和国の中心が移動して、リアルト島の各地で教会や聖堂の建設ラッシュがはじまった。おそらく、ガラス工房も建設現場に近いリアルト島に移ったのであろう。それを確認できる資料はない。公式な記録上でヴェネチィアのガラス職人の名前が登場するのは10世紀末になってからのことであった。1078年にはサンマルコ大聖堂の再建が始まり、前壁面がガラスモザイクで埋め尽くされていった。ヴェネチィア政府は東方のガラス工芸の中心地に植民地を建設して、原料の砂やソーダ灰の入手を確保するとともに、それらの中心地で作られていたイスラムガラスの独占的な輸入も行うようになった。そして遂に1268年にはヴェネツィアンガラス同業組合が結成され、組織的な発展の基礎が作られ、これを踏まえてヴェネチィア政府もガラス業界への援助が行われるようになる。1277年、ベネチア提督がシリアガラスの最大産地の領主との間にガラスカレット(ガラス素材原料)の輸入契約を結び,ベネチアへの原料の安定的供給を計った。また燃料の管理を合理的に行う為に、薪に政府が 直接統制を加えることになり、夏期の操業の禁止を行うなど、政府の強力なコントロールが入れられるようになった。ガラスの製造を完全なかたちで政府の保護下におく為に 1291にガラス製造業者及び職人、助手、家族等すべてをムラノ島に移住させ、島外に脱出する者には死罪を課すという厳罰体制で管理が行われた。一方では新しいガラス技術や新製品の開発を行った者には賞を与えたり、時には貴族の称号を許可することもあった。ベネチアンガラスは、ムラノ島の中でこうした管理化の下に守られ、発展していった。 13−14世紀のガラス この時代のガラスは、ビザンチン世界のガラス、とりわけギリシャのコリントガラスに関連をもつ。ビザンチンとイスラムのエナメル彩色の技法と器形のデザインが15、16世紀に展開するグラスに大きな影響を与える。 15世紀のガラス 15世紀になると、イタリアルネッサンスの文化的高まりを背景にして、ガラスが高度に発達して行く。その代表的な作品が華麗なエナメル彩色のゴブレットやコンポート、鉢や瓶壺類である。特に結婚記念や祝祭記念用に作られた作品は、注文主の家紋や名称、 肖像等を入れて作られた。この時代はヨーロッパの各地の君主や名家からの注文によって製作されたエナメル彩色の記念のガラス器類が多く作られた。これからも15世紀よりベネチアンガラスが名声を獲得し、賞賛されていたことがわかる。エナメル絵付けガラスの大家とされるアンジェロ・バルビィエールの結婚記念杯が有名である。 16世紀のガラス 16世紀後半になるとベネチアンガラスは最盛期をむかえる。新しい様式のガラス作品が続々と生み出された。ヴェネツィアンレースとして当時のヨーロッパ貴族たちのコスチュ−ムを飾ったレースの名声をガラスにも取り入れようとして作られた繊細なダイヤモンド彫り ガラス、華麗なレースガラス、無色透明のクリスタルガラス、器全体に氷裂を入れたアイスクラックガラス、美しい流動的な色彩のうねり模様を再現したマーブルガラスなど、色々な形態や機能のガラス作品が作りだされた。特に乳白色の細い線を透明なガラスの中にレース編みのように一糸乱さずに閉じこんだレースガラスは秘伝とされており、永くヴェネツィア独特の至芸として伝えられてきた。 16世紀のベネチアンガラスにおいて、壁面鏡や巨大シャンデリア等、インテリア関連のガラス製品が急速に展開し、特にベネチアの鏡はヨーロッパ各国で大流行した。その名声を高めたのがフィレンツェのカテリーナ・メディチがフランス王アンリ2世に嫁いだ時に109枚のヴェネチィアの鏡を持参した。当時の鏡の値段は名画の3倍も高かったということであるから、それは富の象徴ともなった。さらに、マリア・デ・メディチが続いてフランス王アンリ4世に嫁いだ時には、多種類の宝石で飾られた化粧鏡がヴェネツィアより贈られて話題をさらったそうである。こうしたフランス王室のデモンストレーションに刺激されて、各国の王室や貴族たちも競ってヴェネツィアの鏡を買うようになり、それを部屋一面に飾ったりして、「鏡の間」がヨーロッパの貴族社会で大流行する。さらに、そこに輝きを添える シャンデリアの需要も多くなった。 17世紀のガラス ヨーロッパ市場の90パーセントを占有するほどまでに急成長したヴェネチィアのガラス産業も17世紀になると、かげりを見せ始める。大西洋ルートで世界貿易を展開し始めたスペイン、ポルトガルや強力な政治力と経済力を持ったフランスがヨーロッパの政治経済の主導権を握るようになり、ヴェネツィアの地中海の東方貿易は無用となっていった。さらに、イギリスで鉛のクリスタルガラスが発明されて、豪華なテーブルガラスがヨーロッパ市場を魅了し始めた。また、ヨーロッパの半分を占有していた神聖ローマ帝国はボヘミアのプラハに首都をおき、ボヘミアンガラスの育成に努め、木灰を使ったカリ・クリスタルガラスを生み出し、無色透明のガラスに彫刻を施した豪華なバロックガラスが創り出された。このガラスはハプスブルク家の下に王室で使われるようになり、急速に中部ヨーロッパに拡がっていった。そんな中でヴェネツィアンガラスはヨーロッパ市場から撤退していくようになり、大きな危機に直面する。 こうした危機を乗り越える為、ムラノ島総動員で、イギリスやボヘミアのガラスに対抗できるガラス製品の開発に取り組み、生まれたのが過剰装飾とも言われることのあるアップリケ装飾を取り入れた華やかなガラス製品である。縁取りに青や赤や黄色等を使った多彩なガラス器も創り出された。また、イギリスやボヘミアのクリスタルカットのシャンデリアに対抗して、花のように多彩で華麗なシャンデリアやキャンドルスタンド等の照明器具もこの時期創り出された。さらに、古代ローマ時代のミルフィオリガラスの技法を再現して、モザイク模様のトンボ玉を大量生産して、アフリカ原住民との間で奴隷貿易を行ったのもヴェネツィアの衰退の影響がみられる。 ヴェネツィアンガラスの市場を維持する為の努力によっていろいろな技術開発や新しいジャンルの開拓を行った。金色に輝くアヴェンチェリガラスの開発やマーブルガラスの展開もその成果となった。 18世紀のガラス ヨーロッパ各国は新しい産業主義が始まり、自国産業を保護する為に競争力の弱い 分野の製品に高率の輸入関税を課して自国の産業を保護するようになった。ベネチア、ボヘミア、イギリスのようなガラス産業が高度の発達をみせていた国を除いて、どの国も自国のガラス産業を保護する為に、ガラス製品の輸入に対して高率関税の制度をおこなった。このため、ガラス生産国の輸出は激減して倒産するガラス工場が続出した。そこでムラノ島のガラス工場は高率関税でも乗り超えてゆけるような付加価値の高い製品の開発がされるようになった。かつてのムラノ島では手がけたことのなかったグラヴィ−ル彫刻やカットの技法も導入した製品が作られた。またベネチアンガラスの一分野として重要な位置を占めていたガラスモザイクも従来の一センチ角でかなく、一ミリ角のガラスモザイクさえ作り出された。さらに社会状況の変化により超脱した強力なスポンサーであったキリスト教会に対する売込みも盛んになり、教会のインテリアや什器類も作られるようになった。関税のないアフリカや東南アジア向けの輸出トンボ玉も盛んに製造された。ガラスの装身具や使うことを目的としない装飾品、洋服のボタンやステッキの握り手、ドアノブ、子供のおもちゃなどあらゆるものが手がけられた。そしてこの苦境にナポレオンのヴェネチィア征服(1797年)という一撃を与え、ベネチア共和国が解体する。 19世紀のガラス 1806年、venezia共和国の解体から10年後にムラノ島の500余年続いたガラス 職人組合は解散した。輸出が落ち込み、政府の指導もなく、ガラス職人たちは途方に 暮れていた。しかし時代は近代化に踏み出し、義務教育、社会教育、産業教育の場として、美術館、博物館、資料館のブームが到来した。ヨーロッパの各所でその土地固有の物産や伝統を踏まえた歴史博物館が作られた。古い資料が不足し、必然的にレプリカが必要となり、ムラノ島の職人たちは、古代から17世紀のガラス製品の名品レプリカ作りに励む中、自らの現状を切り開いていくヒントを得ることになる。 色ガラスの生産を特徴としていたヴェネツィアのガラス工芸にとって、他国にはできない最大の利点が色ガラスを基本にしたがらす製品を作ることであった。その一つがガラスモザイクの生産で、古い教会のモザイク壁画の修復に必要であった。ヴェネツィアは黄金モザイクガラスを作ることのできた唯一の産地だった。さらに新しい建築用の照明器具や建材インテリア部門にジャンルをひろげていった。 支えを失って再出発したムラノ島のガラス産業もこうして辛うじて苦難の時代を乗り越えようとしている時に、二人の救世主、弁護士サルヴィアッティと修道院長のザネッティが現れる。サルヴィアッティはガラスの世界では素人である特権を生かして、ガラスモザイクに近代的な製法を導入して大量生産する工場を建設し、建設関連のガラス製品や名品のレプリカ、時代に適したガラスの量産に踏み出し、株式会社を設立して大きな成果を あげた。サルヴィアッティに続く工場が続出して古い体質は近代化していった。一方でザネッティはガラス工芸の基本を教える教育機関をつくり、古い資料を集めてガラス博物館もつくった。本来、工場特有の秘法や秘伝や独自の技法を公開することを厳禁していた規制の中で過ごしてきたムラノ島の職人達は容易には公開してくれなかったが、ザネッティの熱心な説得に賛同し、学校、美術館、展示会、研究会が開かれてゆき、資料も集められ本格的な研究も進められた。こうした先見者と伝統職人達の提携によって、窮地を脱出し少しずつ近代化の道へと進展していった。 20世紀のガラス この時期、ベネチアではヨーロッパで流行していたアール・デコ様式に呼応するデコ様式を生み出した。それはシンプルな造形と抑制された色使いを特色として、華やかな装飾性や多彩色を特色としていた従来のヴェネツィアンガラスの様式とは異なった現代的なデザインとなった。第二次世界大戦で被害を受けたイタリアの中で、ムラノ島のガラス産業にも破壊的な打撃を受け活力を失う。そんな状況の中で銀行員コスタンチーニにより、ガラスの復興を願って、世界の巨匠達(ジャン・コクトー、ピカソ、シャガール等、数十名の画家や彫刻家)にガラスの芸術作品の制作に協力を呼びかけた。 1950−70年代にかけて、こうした巨匠達は続々とヴェネツィアを訪れてコスタンチーニに協力を申し出て、ガラス彫刻作品用のデザインを描いた。コスタンチーニがデッサンをガラス製品に移す解釈と指導を行い、巨匠達とコスタンチーニの共同作業となり、作品は生まれていった。これがガラス史上最初の彫刻作品であった。コスタンチーニ企画した初めての発表会に多くの アーティストやアートディーラーが荒廃していたムラノ島に集まり、職人達に大刺激を与えた。そしてムラノ島は改めて蘇り、新しいガラス美術を生み出し、すばらしい現代作家たちが輩出していった。 ベネチアの歴史 紀元前一世紀頃、古代ローマ帝国が現在のヴェネト州、フリウリ州、トレンティーノ州、 そしてクロアチィアのイストリアを含めた地域をVenetia」と呼んだことに由来する。紀元前10世紀に小アジアから到来したと言われる人々が定住して、ヴェネツィア周辺の本土沿岸に港町ができた。6世紀頃、アッテラのフン族の襲来から逃れるために、 多くの住民がラグーナと呼ばれる浅瀬の岬や島、現在のトルチェロ島ヤブラノ島などの島々に移り住み、どうにか塩の生産で生き延びた。やがて塩の交易で経済力をつけ、コンスタンティノープルから自治権を与えられ、7世紀末には最初の総督が選ばれ、9世紀の初め、水で囲まれて防衛に適した場所、ヴェネツィアの島に本格的な移動がはじまった。司教と総督というヴェネツィアの町にとって基本的な聖と俗の二つの権威が確立する。 827年頃、二人の商人がエジプトのアレキサンドリアから聖人サンマルコの遺体を持ち帰り、その時点からヴェネツィアの守護聖人となり、サンマルコ聖堂を再建して、宗教的独立と政治的自由を願った。司教と総督の努力によって、西方の国向けの品をビザンチンや アラブなど東方の国から輸入する港として栄えるようになり、992年に総督は東ローマ帝国から海運貿易に有利な条件を獲得し、11世紀初めにはアドリア海全域を手中に入れた。14世紀のペストで人口は半分になり、経済危機が訪れたうえ、ミラノ、フィレンツェなどからも攻撃を受けた。幸いにして、ジェノヴァと協定を結び、それ以降は アドリア海を 制覇できるようになった。そして勢力を増してきたトルコ軍に対して、キリスト世界を守るという 名目で立ち向かった。一方内陸では14世紀末、フィレンツェと協定、15世紀には北ヨーロッパとの輸出の道を確保する為、軍隊を送り、ヴェローナ 、パドヴァ、ヴィチェンザを支配下に置くようになる。その後戦いに巻き込まれながらも 16世紀には経済大国となり、最も華やかの時代をむかえる。16世紀末レパントの戦いでトルコ軍を倒して将来が 輝かしく思われたが、17世紀初め再びペストの打撃を受けて次第に衰えていった。1797年にはナポレオンの占領でヴェネツィア共和国は破壊する。その後オーストリアの支配下におかれるが、1866年イタリアに統合する。 ベネチアの島 ベネチアの島は120以上の小島が400もの橋で結ばれている。水と陸の接点である橋はヴェネチィアの都市構成の重要な要素であり、現在の橋はほとんどが19世紀に作られたもので、全てが太鼓橋なのは水面と陸面の差が少ないためである。町は街路と広場と150ある水路の網で形成されている。 人口基盤 ベネチアの建物は不安定な地盤に適した軽い柔軟性のある構造が必要だった。建物の外壁の部分に木の杭をカラントと呼ばれる粘土と砂の混じった層にまで打ち込み、その上にユーゴスラヴィアから運んできたイストリア石の基礎土台を載せ、さらにその上にレンガの壁を積み立てていく。主構造には船と同じように木が使われた。木は湿気を吸収し全体の重荷を減らすので、船大工の技術を建物に適応した。 井戸 広場や宮殿の中庭にはほとんど必ず井戸がある。それは地下水を吸い上げるものでは なく、雨水を溜める槽である。地下水のない島という立地条件で飲料水獲得のための見事な工夫であった。
|
© ® 2004 - 2006 Tutti i diritti riservati - venetianbazaar.com